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『フェイトレス 運命ではなく』隣にある幸福

フェイトレス ~運命ではなく~~ SORSTALANSAG/FATELESS ~

    

監督: ラヨシュ・コルタイ   
キャスト: マルセル・ナギ、ヤノーシュ・バーン、ユーディト・シェル、サーリ・ヘラー、ダニエル・クレイグ、ジョルジ・ガスゾ、ラホス・コルタイ、ケルテース・イムレ、エンニオ・モリコーネ
制作: 2005年(日本未公開)

2014年5月11日。DVD観賞

原作は、2002年にノーベル文学賞を受賞したユダヤ人作家、ケルテース・イムレによる自伝小説。

映画の脚本も原作者自らが執筆している。
それだけに、強制収容所の描写は史実に近いのだろうと思われる。

14歳のユダヤ人の少年・ジュルカは、ハンガリーの首都ブダペストで父親と継母と共に暮らしていた。
物語は父親が「労働キャンプ」へ行く日から始まる。
近隣のユダヤ人の友たちに父が送られて後、ジュルカは学校を休学して働きに出る。
ある日、通勤途中のバスが警察によって止められた。
そのままジュルカは長い旅に出ることになる。

映画は少年の目線でずっと語られていく。
セピア色の画。
コマ切れの描写。
解らない時間の経過。

まさに「そこにいた人」の記憶を辿る映像。

ありがたいのは、ホロコーストものにしては人死にが少ない事。

「ガス室に送られる」というのもユダヤ人たちの憶測のみであり、描写はない。
銃で撃ち殺されるような映像もないし、とにかく「血」は少ない。

その代わりに描かれるのは、生きているのに「生」のない世界である。
収容所の中で、主人公たちはただ働き、ただ食べ物を求め、ただ言われた通りの罰則を受ける。

ただ生きているのである。殺されないために。

DVDジャケットの主人公が自分の手を見つめる画が作中に出てくる。

働けど働けどなお我が暮らし楽にならざりぢっと手を見る。
という啄木の有名な歌があるけれども、このシーンはそれよりも遥かに悲惨な状況を表していた。

働けど働けど…明日の命がどうなるのか解らない。
何のために働くのかさえ解らない。

ただ、ユダヤ人であるというだけで受けなければならない仕打ちに涙も出ない。
ただただ苦しくて辛い。

それでも。
この映画は変わった事を訴えてくる。

ホロコーストは辛い、人格を取り上げられた生き方は苦しい、虐待はいけない…最終的にはただそういう事を訴える作品ではないのだ。

どんな場所にもその場所なりの幸せがある。

この状況で

と思うところだけれども、それは自分自身がそこにいなければ解らないこと。

歴史的な観点から見ると、色々と不思議な事があった。
けれども、自伝なのだから…史実なんだろうな…と…。

自伝なのだから主人公が死なない事は初めから解っているわけだが、ブダペストで主人公の周りにいたユダヤ人たちは普通にそこで暮らしていたらしいのである。

ハンガリーではかなり過酷なユダヤ人狩りが行われており、ハンガリー国内でのユダヤ人差別もかなり前から激しかった。数多くのユダヤ人が強制収容所に移送され、残ったユダヤ人も国内で虐殺された……はず。

ただ、ブダペストではスウェーデンのワレンバーグに救われたユダヤ人が何万人かいるので、ジュルカもバスに乗らなければ助かったかも知れないという事なのだろうか。

そう考えると、邦題は『運命ではなく』だけれども、運命だよね。
乗ってしまったのも送られたのも…そこでの生活も。
戦争さえも。

とても重苦しく、結末さえも不条理だけれども、主人公の不思議な心持ちには気付かされるものがある。

それは、いつの時代のどこにいても共感できるもの。

ここから下ネタバレ観てない方は観てから読んでね 


幸せだったお前の子供時代はもう終わったんだ。
ユダヤ人の運命をお前も担っている。

労働キャンプに行く前の父の言葉は、この時のジュルカにはまだ響かない。

たった14歳である。
父が行ってしまう事よりも、アンナマリアとの約束の方が気になるくらい。

「ユダヤ人の運命」を彼が思い知るのは、バスに乗って強制的に連行されてから。

劇中では時間の経過は丸っきり記されていないが、ブタペストからアウシュビッツ・ビルケナウを経過してブーヘンヴァルト強制収容所まで5日ほどかかるらしい。
つまり、あの飲まず食わず状態は丸5日…。
最初から5日間かかると言われての飲まず食わずと、一体どれだけ続くのか解らない飲まず食わずでは違う。この時点で、もう彼らの気持ちは死と隣り合わせにある。

最終的にはツァイツの小さな収容所。
ここで「浴槽や火葬場はない」とナレーションが入る。
とりあえず…ガス室送りは無くなったという安堵が感じられる。

けれども、ここで待っていたのはいつ死んでもおかしくない労働と飢え。

懲罰の何時間も続く整列シーンが見ていて辛い。
真っ直ぐに立ち続けられない人々。みんな揺れている。
それを上から映すあのシーンが、首を絞められているように辛かった。

倒れて遺体の山に埋もれそうだったジュルカが、突然綺麗な病室に移されたシーンは…あの時点でちょうど戦況が変わったのだということでいいのかしら。
ナチス支配下だったら、死にかけていればたぶん助けてくれることなどないだろうから。

全てジュルカ目線なので、そういう点ではよく解らない部分は多かった。

解る必要もないのかも知れないけれども。

「バスか電車か」

は、関係ないだろう…どうせ残った人たちも全員送られるか殺されるのだから…と、思っていたけれども、上に書いた通りブダペストの知人は年寄りでさえも残っているようなので、本当に電車だったら助かっていたかも知れない。

父は戻れなかった。家もなくなった。自分の環境だけは変わってしまったのに、他のユダヤ人たちは普通に生活していた。
継母なんて再婚までしてしまっている。
まるで浦島のような状態。

こういう事を全て解っていたから、アメリカ兵はブダペストに戻らない方がいいと言っていたのだろうか。
(ダニエル・クレイグさん、ここだけの特別出演)

収容所の仲間があんなに戻りたいと言っていた「忘れな草通り」は瓦礫の山になっていた。

バスに乗ったために全てが変わってしまった。
だから、ジュルカはいう。

今、何を感じるか。「憎しみです。」

それでも、彼は夕暮れ時に幸せを感じるというのだ。

あの収容所の中でさえ、食事が配給される夕暮れ時がジュルカは幸せだった。

「それは、今も変わらない」

死と隣り合わせにいても、平和に溢れた世界でも、幸せはある。
その気持ちが、彼が生きていく支えになっている。

その結論が何とも不思議だった。軽く殴られたくらいのショックがあった。
これだけの苦しみを見せ続けられて、そこにも幸せはあった…という結論。

どんな環境にいても、どんな過去を抱えていても、そこに到達することが生き続けるという事。

 

 

 

★前田有一の超映画批評★

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